勉強とかいふもの(7) 高橋正治先生の学恩(3)

高橋先生は白皙はくせきの人であつた。髪まで白かつた。私が夏期講習を受講した1986年当時、61歳であつた様だが、枯れた70過ぎの老人に見えた。しかし、内面が外面におのづからにじみでて「若い」印象を受けた。けつして爺じじむさいと感じなかつた。ふしぎな、不遜ではない高貴な印象があつて、朱に交つても赤くならない、予備校教師ふぜいによくある独特の汚さが微塵もなかつた。それもそのはず、高橋先生は歴とした大学教授清泉女子大学でもあられたのだから(とは、はるか後年にやうやく知つた。1995年に物故された由)。

先生はむりに古文を現代文に訳さなくていゝと仰つた。読書百遍、義、自づから見あらはるだと。どうしても現代の俗人にはわかりにくい部分だけ選んで、現代語に移せばよいのである。…ほら、この助動詞の「べし」だ。「べからず」といつて、「こゝに犬の小便させるべからず」と掛札かけふだがあれば、誰でもわかるさね。禁止の意味だ。しかし、「けふの命、たすかるべくもあらず」となればどうかな。すこし難しい。ここは可能・不可能の意味で、現代語とはすこし距離ができてゐる。だから「命をたすけることもできない」とチョットだけ手直しをしてやればいゝわけ。チョットだけだよ。万事この調子さ。私のこの薄いテキスト、諸君もおどろいたかも知れないが、こゝにぜんぶエッセンスがつまつてゐる。助動詞、助詞の意味。古文を読んで、意味がわからないなと思つたら、「べし」には七つ意味があるが、読んでそのまゝわかればそれでよし。わからない時だけ、このどれに該あたるのだらう、と意味を推していけばいゝ。あとほんたうに基本的なことではあるが、動詞、形容詞、助動詞、これら用言の活用形と接続だけはまる暗記したい。…

講習に参加した他の浪人生は、「クズ授業」だとほざいてゐたが、私は高橋先生のおしへで初めて「古文」に目覚めた。「古文」の読みだけでなく、英語の読み方においても啓発するところがあつた。

古文も一種の外国語なんだよ。しかしね、日本人でうまれてきたからには、英語とかまなぶよりは遥かにまなびやすい外国語なんだと思へばいゝ。それだけなんだ。苦手意識をもつとかいふのは論外なんだね。すこしだけある、古語と現代語とちがひのあるところ、それだけ学べばいゝだけの話ぢやないか。原文はそこに書いてあるわけだな。それをそのまゝ読んでわかれば本来たくさんなんだがね。英語でもさうだろ? 訳は余儀なくするものと心得よ、だな。

高橋先生は他にも滋味ある「余談」をなされた。

…戦争ねえ。夏の季節だからね。よくテレビや新聞であの昔の戦争がとりあげられます。私には昨日の世界のやうに思ひだせる。だけどねえ、お涙頂戴どころの話ぢやないのさ。東京大空襲。一夜明けたら、そこら中死体だらけ。悲惨だつたよ。言ひ表せない。最初は死体の横をあるくたびゾッとしたよ。真つ黒に焼け焦げた死体もあつた。しかし、死体があると通行に邪魔だといふので、数日もすれば死体をどんどん積み上げていつて死体の山ができた。みんなもうなんとも思はない。たゞの物体。「感性」とか「道徳」とかいふけど、人間の「感受性」なんて所詮こんなものなんだよ。どんなに悲惨なことにも、すぐに慣れ切つちまふ。安つぽいものさ。

…私が大学を卒業するころ、石炭景気でねえ。みんなその方面に就職していつた。満面の得意顔でね。未来は明るいとかさう言つてたよ。だけど、十年もすればみんな閉鎖になつてしまつた。石油の時代になつたから。お笑ひだねえ。君たちもいゝかい、時流に乗ることには慎重でなければならない。よのなかなんてどう転ぶか、わからないもんでねえ。一寸先はまこと闇さ。それまで天皇陛下万歳とみんな言つてゐたのが、民主主義万歳、労働運動万歳だといふ。あほらしい限りだねえ。私はたまたま学究の人生をあゆんで、平穏無事にすんだが…。

たつた2日か、3日かの講習だつたが、私は「おほきな」ものを得た。高橋先生の講義の「意味」がわからない連中とは私は違つて、先生の持つ「なにか」を私は感じるちからをもつてゐたと思はれる。先生の書いた古文の参考書をよむと、この時のテキストは、じぶんが練習してゐたピアノの教則本にならつて作つたのだとある。なるほど、先生は藝術的感性が高い人だったのである。だからこそ私は強く「感応」したと思ふ。

講習の最後の日、背高く痩せた高橋先生が、教員室に向つてしづかに歩まれる姿を見送つて、なんだかさみしくなり、なにか適当な質問を拵こしらへて追ひかけていきたい衝動が強くうまれたが、私はそんなクサい藝当ができるタチではないので、こらへて終つた。たつた数日の学恩だが、はるか後年、これが私がじぶんの息子に英語や古文をおしへた方法に相違ないのだから、その学恩には計り知れないものがあるのである。

なほ、夏休み明けの校内テストの古文で、私が満点第一位を占めたことはいふまでもない。

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